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自由はあかるく、せつない。 

なんのきなしに街をあるいていると、
時折、胸がキューっとしめつけられる。

それは、10歳の男の子が
家族と歩いている姿を見るときだ。

そのときに
突然よみがえる記憶がそうさせる。

その年齢の頃の僕には、
家族そろっての外出は、
とてもイヤなものだった。

なぜか、たまらなく恥ずかしい…
そんな感情をいまでも覚えている。

家族だから当然だけど、
似たような顔が、かたまりになって歩くことは
見せてはならない家の内側を世間に晒すようで、
たまなく恥ずかしかった。

なんで、あんなに恥ずかしかったのか?

ふと、当時のことを振り返るのは
あれから40年ちかく経ち、
おそらく数百回はあっただろう。
(いや、もっとかも…)

あのころの我が家は、
どの家よりも閉鎖的で、
独裁小国家のようだった。

人を気軽に家の中に招く習慣はなかったし、
そんな住宅環境でもなかった。

閉鎖的であることは、
当然にして、他人の家の情報はなく、
自分の家のことしかわからなかった。

閉鎖的な家でおこることは、
自分の家だけでおきることで、
それは特殊な我が家の事情であり、
他人に話してはいけないと思いこんでいた。

その家族という小集団が、
何食わぬ顔で、街をいちだんで歩くのは
違和感以外のなにものでもなかった。

みっともないこと、他人に知られたくない争い、
ぶざまで美しくないはなし、に
フタをして、和気あいあいを演出して
歩いているように感じたから。

この少しづつ積み重なっていく、
「ウソくささ」が、
たまらなく嫌だったのだろう。

おそらく、
他の家でも同じようなこと
大なり小なりあったのだろうが、
当時の僕には、それを知る由もなかった。

とりわけ、
ぼくのこころに影をおとしたのは
父と母のいさかいだ。

それを思い出すたび、
僕の記憶の中に、薄暗いキッチンの
ワンシーンが浮かんでくる。

ドアの隙間から漏れる
わずかな光の奥で、
父と母ははげしく言い争っている。

当時の僕にはわからない、
いつ果てるともしれない大人の事情。

あれほど、つらいものはなかった。

父に責められている母が
わたしの名前を叫び助けを求める、
そんときも多々あった。

僕が、体をはって止めに入っても
ただ、父の怒りに油を注いだだけで、
あっけなく撃退された。

非力で無力な自分に絶望し、
どうじに父を疎んじる10代がはじまった。

あらから、40年ちかくの月日が流れた。

母は56歳であの世に行き、
父は実家で1人、母の仏壇を守っている。

もはや、ぼくの心に影なない。

あの時、僕はまだ、弱かった。

弱くて、傷つきやすい魂が宿っていた。

小さいころの僕をとらえて、
永遠に逃げられないと感じた
家族=独裁小国家という呪縛が、
いまは、まるで蜃気楼のようだ。

そして、気がつけば、僕は自由という、
あかるいけど、なんだか、せつない世界に
ただひとり、とり残された感覚だ。

あんなに自由をもとめていたのに、
自由を得て見たら、
こんなに”せつない”なんて…

ぼくは、この記憶を思い出すたび、
人のよわさや、心細さを再認識する。

そして、思い通りにいかない、
人生に立ちはだかる壁の前でも、
懸命に乗り越えようとする力を
家族は与えてくれていたことも思い出す。

僕らの家族には「愛」があった。

人にはかならず、死が訪れる。

「浮きことのなおこの上に積もれかし
 限りある身の力ためさん」

江戸時代の陽明学者のコトバだ。

5年前、私自身も大きな手術を経験し
死について考える機会をもてた。

死を意識することで、
生きることがより解放された。

人生って、後で、後で、と考えていると
せっかくいただいた命を、
存分に使えないままにしてしまう。

「やりたいこと」って、
意外とできていないものだ。

何がやりたいのかがわからないことも
しばしばある。

ぼくが求めていたのは
自由ではなく「しあわせ」だと
いまではわかる。

人生を折り返しにきて、
死を意識するようになって、
やりたいことが見えてくる。

いきている限り、
じぶんも、人も、幸せにする。

ただ、やりたい放題やるんじゃなくて
僕が思いっきり宿命を活かし生きることが、
みんなが幸せにむかうよう、一致させる
意欲が湧いてくる。

幸せを見つめる占い。
幸せを見つめる運勢学。
幸せを見つめる市場を創る

それが、自然が僕にあたえた宿命だから。

@東京有明の秘密基地から 菅畠 斉伸